日機装の文化

2023/05/30

2023年で創業70周年。日機装の歴史を振り返る 【#1 創業ストーリー】

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2023年で創業70周年。日機装の歴史を振り返る 【#1 創業ストーリー】

目次

1953年12月26日に創業した日機装は、2023年に70周年を迎えました。

音桂二郎が「特殊ポンプ工業株式会社」の名前で事業を起こして以来、日機装は日本経済とともに大きく成長してきました。

今回の記事では、そんな日機装の “これまでの歩み”を振り返っていきます。第1回となる今回は、創業ストーリーと創業者・音桂二郎の人となりや経営に対する想いをご紹介しましょう。 

日機装 創業までの道のり

2年にわたる海軍生活で得た、二つの重要な出会い

海軍時代の音桂二郎

日機装の創業者である音桂二郎は、1919年1月1日、音申吉の次男として東京に生まれました。やがて、第一高等学校理科甲類を経て、第2次世界大戦が勃発した直後に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業。その後、桂二郎は海軍に入り潜水艦を扱う技術士官として働くようになります。

日々潜水艦の修理にあたる中、ある日ドイツの潜水艦を見学する機会を得た彼は、日本と海外との圧倒的な技術力の差を目の当たりにしました。当時日本の航空機や潜水艦の技術は世界に誇れると聞かされていましたが、細かなところまできっちりと作り込まれ修繕をほとんど必要としないドイツの潜水艦は、彼の目に驚くべきものと映ったのです。

潜水艦

この時の印象は彼の中に強く残り、「まず外国の技術を採り入れるのだ」という思いは後のキャリアにおいても貫かれました。

またこの海軍時代に出会った、“その粒を通すと海水が真水になる” という「イオン交換樹脂※」の存在が、彼の後のキャリアに大きく影響することになります。

「水処理をライフワークにしたい」という思い

桂二郎の海軍生活は、1945年の終戦によって終わりを迎えました。退官後は、戦後の財閥解体によって三菱商事から分かれた金属商社「金商」より要請を受け、入社することに。

新設された機械雑貨部機械課で、電力や製鉄をはじめとした日本の主要産業向けに、海外の優れた機械を輸入・販売する仕事を始めました。

そうした中「何か面白いものが見つかるかもしれない」という同僚の誘いを受けて訪れた三菱化成社で、桂二郎は海軍時代に出会ったイオン交換樹脂(※)との再会を果たします。

※イオン交換樹脂
水を使用目的に合った水質に保つための「水処理」に用いられるイオン交換体。自らの樹脂イオンを水中に出して、水中のイオン成分を交換することで水を浄化する機能がある。

水を使用目的に合った水質に保つための「水処理」に用いられるこの樹脂を、三菱化成社から頼まれて金商で販売することになった桂二郎は、高価な樹脂を販売するための戦略として水処理装置も併せて取り扱うことを決めました。

そして自ら装置の設計・製作を手がける中、“ポンプをはじめとしたさまざまな機械を組み合わせ、全体として最適な処理ができるシステムを作り上げる” という、その機械と技術に魅了され、次第に「水処理をライフワークにしたい」との思いを強くしていきます。

やがて、「商社の取引形態から脱することのできない金商では、総合的な水処理会社の仕事は到底できない」と、最初の勤め先である金商を離れることを決断。三菱化成社に話を持ちかけ、金商との合弁で水処理を専門とする「日本練水」を立ち上げてもらったのです。

日本練水でいざ水処理の仕事を第一に取り組んでいこうと意気込んだ桂二郎でしたが、「イオン交換樹脂を売るために、水処理ビジネスが役立つ」と考える役員との姿勢の違いに悩み、1年ほどで日本練水を離れることになりました。

父と二人で「特殊ポンプ工業」を設立

【創業の頃の音桂二郎と父申吉】
綜合水処理メーカーになるという夢が破れ、日本練水を退社した桂二郎は1953年、父・申吉と二人で会社を立ち上げることにしました。これが日機装の前身である「特殊ポンプ工業」です。特殊ポンプ工業で初めにスタートさせたビジネスは、特殊ポンプの輸入販売と缶水処理装置(ボイラ水の水質調整装置)の企画・製造・サービス業務でした。

装置を作るにあたっては、中心的な部品であるポンプがその品質のカギを握ります。正しく水質をコントロールするには、一定量の薬剤を吸い上げ注入する質の高いポンプが必要なのです。

桂二郎は自社で扱う装置に組み込むポンプとして、金商時代の取引先であった米ミルトン・ロイ社の優秀な特殊ポンプを用いたいと考え、同社に交渉の手紙を書きました。そしてこれにイエスの返答と激励の言葉を受け取り、ポンプの販売代理権を取得するに至ります。

創業したばかりで社員はわずか2名という小さな会社が、有名ポンプ企業の販売代理権を得ることは決して簡単なことではありません。

しかし金商時代から桂二郎が技術者としてミルトン・ロイ・ポンプをよく理解し、さまざまなお客様の元でこのポンプが意図通り使われるよう尽力していた姿は、同社の社長シーン氏を前向きにさせたのです。また後に判ったことですが、父と二人で特殊ポンプ工業を立ち上げた桂二郎の経歴に、シーン氏は、同じように父と子の二人でミルトン・ロイ社を築き上げた自分の境遇を重ねたのだといいます。

こうして「再生のチャンスを与えてくれた第一の人」と言えるシーン氏のバックアップにより、桂二郎と父は新会社でのビジネスをスタートさせました。

ミルトン・ロイ社との技術提携から国産化へ踏み切る

ミルトン・ロイ・ポンプの国産第1号【ミルトン・ロイ・ポンプの国産第1号】

ミルトン・ロイ・ポンプの優秀さが世間で認められていたために、特殊ポンプ工業はその輸入販売のみでも十分に利益を確立できましたが、桂二郎がこれで満足することはありませんでした。

「将来いつまでも輸入を続けるのではなく、国産品に切り換えていくのでなくては、日本の市場で競争力を保っていくことはできない」だろうと。そして、国産化に向けて進んでいくのならば「世間一般がまだ輸入に熱を上げている時期に一歩先んじて、技術提携による国産化に踏み切る」方が有利だろうと、ミルトン・ロイ・ポンプの国産移行を考えたのです。

そして創業2年目の1954年、資本金400万円、社員わずか3名という状況ながら、桂二郎はミルトン・ロイ社に技術提携の話を持ちかけ、「製作のための図面を購入し、日本で製作できない部分は引き続き輸入する」形での提携の許可を得るに至りました。

当時、この規模の会社がアメリカの会社との技術提携の申請をするのは非常に珍しく、おそらく小企業の技術提携の皮切りになったと言えるものでした。

日機装の誕生

はじめの「特殊ポンプ工業」という社名は、「ミルトン・ロイ・ポンプは特殊のポンプだから “特殊ポンプ” という名にしましょう」と決めた、行き当たりばったりの名前でした。

その後、水質調整装置が売上の半分以上を占めるようになり、自動燃焼装置など新たな装置も受注してビジネスの幅を広げる中で特殊ポンプの名からは想像もできない事業内容となったことから、桂二郎は社名を「日本機械計装」へと変更します。

1960年頃の火力発電所向け装置(試料採取装置)

この「計装」という言葉は、英語の「Instrumentation」の翻訳語として生み出したもので、桂二郎はこの言葉を次のように説明しています。

「オーケストラの演奏には、それに必要な各楽器の演奏者が定められた場所に配置され、指揮者の指揮に従って規則正しく演奏者が楽器を奏でる。それでオーケストラが成り立つ。これと同じように、一つのプロセスのある目的を果たさせるためには、それに必要な計器類、機器類(各楽器に相当する)が適当な場所に配置され、定められた計画(指揮者に相当する)に従って本来の作業を行ない、プロセス全体として一つの目的を行なわせる。これが計装である」

何か単一の製品が際立って優れているということではなく、自社製・他社製、国産品・輸入品を問わずさまざまな機械を組み合わせて一つの装置を作り上げる......この技術こそが自分たちの強みなのだという思いを、桂二郎は「計装」の言葉に込めたのです。

日機装東村山工場

そのように内容にこだわって社名を「日本機械計装」としたものの、この長い名前をいつまでも使用するつもりは桂二郎にはありませんでした。人々にも馴染み深い呼びやすい名前として、将来的には略称である「日機装」を正式社名にしようと電話の交換手や営業マンにも「日機装」を名乗らせ、早くから客先に名を売り込んでいたといいます。

創業者・音桂二郎が目指した日機装の姿

音桂二郎

日本練水を考え方の違いから退社している桂二郎は、「根本的な目的理念に於いて相違があるということは、常に問題を孕むもの」であり「会社の根本理念、方針、目的などは明示」した上でそれに賛同する仲間を集めなければならないと考えました。

現代の「ミッション」や「ビジョン」「パーパス」を根幹とした会社経営にも通ずる視点を会社設立時から持っていた桂二郎の、“思考” の一部をご紹介します。

経営者は船頭のようなもの|法人実在論

桂二郎の経営に対する考えの基本にあったのが、「法人実在論」です。

「個人には寿命があるが、法人はその経営さえしっかり行なえば個人よりは遙かに長続きするもので、この点昔のように企業を個人の私有物と考えることは間違いで、経営者はその時点での企業という法人の番頭だと考える方が至当だと思うのです」

企業も個人と同じように “一つの人格を持った実在” であると捉えなければ、企業を取り巻く複雑なできごとに対処していくことが難しくなるだろうと桂二郎は考えました。

そしてこの実在としての企業を “船” に例え、「船が目的の岸になんとか辿り着けるように、行く手にある障害をうまく避けながら導く船頭が経営者なのだ」という思いを持って経営に臨んでいたのです。

音の想いが込められた|経営五大原則

1961年3月、桂二郎は日機装経営の五大原則を定めました。

日機装経営の五大原則

まずは技術を評価される企業でありたいと、第一の原則(顧客には優秀な製品、勝れた技術、行き届いた「サービス」を提供する)で技術について言及しました。

技術に対する桂二郎の思いは創業時から強いものでした。創業当時の日本では、機械の価格の多くが重さによって決められていた中で、 “技術そのもの”の価値を主張。装置を作り上げるために必要な技術に対する「技術指導料」をお客様からいただくビジネスモデルも打ち出しました。そして「技術指導料」を頂くからには常に高い技術を持ち続け、さらに新しい技術をも開発する能力を持っていなければならない、それこそが当社の存在価値であると主張しました。

またそのように技術にこだわりを持って作った製品が「顧客の使用箇所に於いて完全に顧客の意図する目的を達成するまで見届けようとする」ことを “行き届いたサービス” と捉え、製品や技術の評価と切っても切り離せないものとして原則に明記しています。

第五の原則(企業は社会の公器なる自覚に醒め、一般社会の福祉増進に貢献することを念願する)では、社会に対する責任感が表現されています。

桂二郎は、仕事のきっかけであるミルトン・ロイ・ポンプを使用しているお客様が、公益事業の筆頭である電力会社や日本の産業開発の一翼を担う化学工業であることから、「自分もささやかながら日本の産業開発に役立っているのだ」という自負心を持っていました。

そして「このようにせっかく有意義な仕事としてスタートした日機装であるから、なんとか企業の生命の続く限りは日本の社会のために役立ち、直接でも或いは間接でもよいから社会の福祉向上に役立つ仕事に向かっていきたい」という思いが常にあったのです。

このような桂二郎の思いが込められた経営五大原則の精神は、今でも日機装の根底にあります。

社会とともに成長してきた日機装

初期の東村山工場の様子【初期の東村山工場の様子】

技術とそれを扱う会社であることに対する強い思いを持って桂二郎が立ち上げた日機装は、終戦後の高度経済成長とエネルギー革命を背景に、お客様に支えられ大きな成長を遂げていきます。

経済成長に伴い全国各地に続々と火力発電所が作られる中、関連する機器や技術のニーズも急増。当時ボイラーにまつわる事業を展開する会社は数多くありましたが、水質管理を専門とする事業はマイナーなものだったことから、日機装の水質調整装置が各地で用いられるようになりました。

その後エネルギーの主軸が石炭から石油へと交代し、日本でも石油化学プラントが数多く作られるように。日機装はここで必要となる「キャンドモータポンプ(※)」の製作技術をミルトン・ロイ社の紹介企業から導入して国産化に着手し、石油化学工業の発展とともにその事業を大きく拡大していくことになります。

※キャンドモータポンプ
高温の液や危険な液の移送に最適な、無漏えいのポンプのこと

今回は、日機装の創業ストーリーや音桂二郎の想いについてご紹介しました。

第2回では、日本の透析医療をリードするメディカル事業部が生まれた経緯から他事業部の歩み、さらに日機装の技術の強みまでを解説。創業者・音桂二郎の想いがどのように現在の事業に繋がっていったのか、その軌跡をご紹介しましょう。


今年で創業70周年。日機装の歴史を振り返る【#2 医療・航空分野への挑戦】|Bright

今年で創業70周年を迎える日機装の歴史を振り返る本連載。第2回となる今回は、ポンプ事業を立ち上げた桂二郎が、どのように医療や航空分野へ挑戦したのか、その軌跡をご紹介します。

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